2021.07.31

7月が終わる。

転職したせいか夏の暑さのせいか、疲労が蓄積されていてTwitterは見れないし、生活(食事と睡眠と入浴)以外の時間が全然取れない。もどかしい気持ちよりもひたすら疲れている。余裕がない。

二人暮らしをしている祖母が急遽入院し、一時的に一人暮らしになった祖父に会ってきた。今まで祖母が家事をしてきたので特に食事が心配だ。けれど家に行ったらすでに自宅の整理を始めていて、しばらく一人で生活していくための準備を着々と整えていた。人生で初めてご飯を炊いたらしい。程よく炊けていた。チャレンジ精神に憧れる。失敗を恐れていない。昔から、突き進む力が祖父にはある。

米寿の祖父、今日の食事はUFOと日本酒で済ませていたけれど、生活の変化に柔軟に対応し、気分をコントロールさせて、すべきこと、できることに向き合い、淡々と成し遂げていっている姿は、さすがだなと思う。うまく言えないけれど、祖父はどんな時代でも生き残っていける生命力があって頭のキレが鋭いと思う。わたしが「働きたくないなー」とか言っているのが馬鹿馬鹿しい。そんな場合じゃない、あますぎるなと思った。家庭が大変な状況になってきたので、少しずつ働けるようになっていって、手伝いや恩返しがしたい。

祖母は手術をして快方に向かっているとのこと。面会はできないのでなるべく早い回復を待つしかない。ほんとうは色々思っていることはあるだろう。割り切って笑っている祖父はやっぱりすごい。

今日の祖父の話を聞いていたり、生活のことを考えていたら、わたしが昔想像していた結婚とは違う価値観なのだけれど、恋愛や恋人という言葉で表されるものではなくて、一緒に生活をしていく仲の人間として、とか、死を迎えていく人生には、ともに支え合えるパートナーのような人がわたしには必要な気がしてきた。

遠い距離感でいいのだけど、そういう生活共同体としての人間関係に最も近いのは、今存在している言葉では結婚になるのかなと思った。

花嫁になりたいとか、好きな人と家庭を築きたいとかそういう言葉とは異なる、表せられない感情だ。結婚に関して、それはわたしのなかであたたかい概念とは異なっていて、生きやすくなれる手段として約束を交わした上で、程よく距離の遠い生活共同体を形成したい。わたしの今日の結婚像だ。うまく表しきれていなくてなんだかもどかしい。

親にこのような話をしたら、まずは花嫁修行からじゃないかと言われた。わたしは家事全般苦手ですきじゃない。今のままでは生活をともにしてくれる人に迷惑をかけてしまうに決まっている。

一般的な花嫁修行について、その言葉が持つ意味合いとしては、わたしの結婚観とはズレがあり、その言葉は適切ではない気がするけれど、もし今後、誰かと共同生活をするとして、お互いに自分と相手に対して何か生活を助けられるような状態になっておくためには必要であると思う。

結婚への憧れとはなんとなく違って、いちばんに経済面で生活を安定させたいとも何か違って、まだ自分がどうしていきたいと思っているのか正直よくわからない。

人間関係の集団をいくつか形成し、そこに所属することは、いろんな人間と関わる生き方をすることによって自己が拡大していくたのしさがある。

そういった意味でも、一つの集団として、今いる家族以外の人間関係を形成していくうちの一つとして、結婚のような契約によって、新たな身内ができることで、生活や心身が、一人でいるよりも自由さやゆとりが増すことはあると思う。そんな仲間のような、友人のような、生活を共有してくれるような人がいてくれたとしたら、精神的に豊かになり人生を送っていけそうな気がした。